ご存知のとおり、ジャズの歴史において、1950年代後半はまさに宇宙的な奇跡が起きていたとしか思えないほど名盤が登場した時期でした。1959年にそれはピークを迎えます。
録音年と発表年が混ざっているかもしれませんが、例えば、
デイブ・ブルーベック・カルテット「Time Out」(1959)
ビル・エヴァンス「Portrait In Jazz」(1959)
カーティス・フラー「Blues Ette」(1959)
マイルス・デイヴィス「Kind Of Blue」(1959)
ジョン・コルトレーン「Giant Steps」(1959)
アート・ブレイキー&JM「Moanin'」(1958)
ホレス・シルバー「Blowin' The Blues Away」(1959)
キャノンボール・アダレイ「Somethin' Else」(1958)
オーネット・コールマン「The Shape Of Jazz To Come」(1959)
などなど。宇宙に生命が誕生するのと同じくらいレアな確率で名盤が生まれています。
そんな時代、我がゲッツは何をしていたのか。
はい、ご存知のとおり、相変わらず北欧を中心に欧州ツアーをしていました。この時期のゲッツは人気はあっても最先端にはいなかったのです。1959年録音と言えば、「Stan Getz At Nalen With Bengt Hallberg」、「At Nalen-Live In The Swedish Harlem」、「Scandinavian Days」、「Stan Getz In Denmark」、「Live In Paris 1959」などがあります。ほらほら、ゲッツのマニアでもなければ「うーん、あまり面白い時期ではないな」と思うはず(というか、ゲッツマニアでないとその時期何をしていたか想像もできないw)。ひたすら同じスタンダードを演奏していたという印象があるかもしれませんが、それは違います。そもそもほとんどスタジオ録音していないながら各国でライブをしていたのでたくさん海賊音源が残っているのであり、そのレパートリーが似ているのは当たり前。同時期のツアーなんだから。マイルスだって60年代前半はそんな感じです。
結局ゲッツ自身、取り残されているという感覚があり、帰国して早々に「Focus」を録音して、自分もアグレッシブなことをしているぞ、とひとまず満足するわけです。その後、ライブを行いながらもスタジオで1961年「Stan Getz Bob Brookmeyer Recorded Fall 1961」を録音し、1962年2月にはジャズどころか音楽史上に残る代表作「Jazz Samba」を録音するのでした。
もしゲッツが1959年にアメリカにいたらどうなっていたか。まだチャーリー・バードはボサノヴァをもって帰国していません。そもそもボサノヴァがブラジル本国で初めて録音されたのが1958年、さすがにそんなに早くは伝わってこない。それでもコルトレーンやマイルスに触発されて、何かとんでもないことをしていたでしょうか。
仮定の話なので結論は出ませんが、フュージョン全盛期においても若手に曲を書かせてそれに乗っかるだけというスタイル(褒めています)を貫いたゲッツなので、自ら何かを創作することはなかったでしょう。ハービー・ハンコック、チック・コリアやマッコイ・タイナーといった先鋭的なピアニストが登場するのも1960以降。もしかしたらブルーベックに触発されて変拍子をやっていたかもしれません。いくつか残っている録音から判断すると、ゲッツは変拍子が割と得意だったことがわかりますから。